私にとって、機械式時計と万年筆は、同じような感情を抱かせてくれています。一言で言えば、趣味の実用品でしょうか。
機械式時計は定期的なメンテナンスを続ければ長年(疑わしい時計もありますが)使い続けられます。万年筆も、書き続けることで書き味が向上するため、長年の使用を前提としているはずです。
しかし、特殊条件を除けば、一般的に機械式時計や万年筆は、実用面でクォーツ式時計やボールペンなどに劣ると思います。趣味の意識が全く無く、実用面だけで機械式時計や万年筆を愛用している人は少ないと思います。
“機械式時計や万年筆は、手がかかるから良い。手がかかるからこそ愛着がある。”と言う人もいます。私はこの意見に、半分賛成、半分反対です。
手がかかることの楽しさは、ここで説明することもないでしょう。それでは、なぜ、手がかかることに反対なのか?
実際に、必要以上に手がかかり過ぎる機械式時計や万年筆は、使っていて不便だと思うのです。両者とも、なるべく手がかからないように進化していたはずです。多くの人もそれを求めていたと思うのです。
だからこそ、ゼンマイを巻く必要が無く、時間が極めて正確なクォーツ式時計や、メンテナンス不要で、インクを入れ替えるだけのボールペンが広く普及したのでしょう。
古典的な構造にこだわる気持ちも理解できます。しかし、簡略化も受け入れていかなければならないとも思います。ただし、それがコストダウンのみを目的としている場合には、私も悩みます。でも、悩んだ結果、受け入れざるを得ないと思います。
手間を楽しむことは素晴らしいと思います。しかし、興味が薄れた時に、その手間が負担にならないでしょうか?
近年、機械式時計や万年筆が再評価され、愛用者も増えていると思います。私もその1人です。しかし、数年後には、世の中はどのように変化しているのでしょう。
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